「ひさしぶりだねぇ、元気だった?」
 出迎えてくれた彼女はからりと笑っての腕を叩いた。こちらが笑ってうなづくと、でも疲れたでしょ、と困ったように苦笑いする。
「あんまり元気そうには見えないよ。まあにしちゃがんばったよね。一人でここまで来るなんて」
「ほんとう。とても大変だった」
 湯治で有名な温泉街の一角、格式こそ高くはないものの、建物の大きさからいったら一二を争うこの旅館の跡取り娘である彼女は、あかねと言う。数年前京都に見識を広めにきていたあかねと偶然知り合ってからは、遠く離れていても同じく守る家がある者同士、友人として仲良くやってきていた。
「でも、雪が降る前に到着できてよかった」
「うんうん。冷えただろうから、うちの自慢の温泉につかって温まってきなよ」
「ありがとう。とても楽しみにしていたの。そうさせてもらうわ」
「ゆっくりできるんでしょ?」
「ええ。時間はたくさんあるから」
 ひとしきり歓談して、くつろいだ後。夜になって、はあらためてあかねに頭を下げた。
 この旅館に来たのは湯治のためではない。葵屋に書き残してきた手紙のように、旅行に来たのでも、まとまった休みを満喫しに来たのでもない。――住み込みで働かせてくれないだろうかと、知人に頼みに来たのだ。
 あかねは「二、三日考えさせてくれ」と言って、京都から着いたばかりのをろくに宿代も取らずに置いてくれた。けれど、がほんとうに京都の葵屋に戻らないつもりなのだとわかると、雇ってくれた。
 無理はしないようにねとくぎを刺されたが、出来うる限り働いた。あかねへの感謝の気持ちもあったし、もう一つにはなにも考えなくて済むよう遮二無二働いていたかったせいもある。
 自分が京都に置いてきた数々のものを想うと、そうと決めて実行したのは自分なのに心が痛んだ。
 葵屋は昨日も今日も明日も普通に営業しているだろう。そうであれと、も望んだ。
 操は泣いているだろう。けれど受け止めて欲しいと、我がままだけどもそう願う。
 と操が先代御庭番衆御頭の遺された直系であること、がその立場にふさわしくないほどに弱い身体を持って生まれたことは、誰が決めたことでも望んだことでもない。どうしようもなかった。そう生まれついた以上変えることはできなかった宿命だ。
 それに順じては生きてきた。
 そうして近年、蒼紫は生きて戻り、操は健康なまま育った。理想的だ。こうとあるべき姿がそこにはある。それらが目の前に揃った瞬間、理想を現実に繋げる妨げとなったのはだった。
 だからこれからは、殉じようと思ったのだ。
 それが被害妄想じみた思いであることは重々承知していた。けれど抜け出せない。では“駄目だ”ということは昔からわかっている。蒼紫と操の幸せを願った。心から願った。そのために彼らの幸せに影を差すものを除けることにしたのだ。ただ、それだけ。
さん、大丈夫?」
 ともに住み込みで働く年嵩の女性が、ひどく不安そうに眉を寄せての背を撫でる。はほほえんでうなづき返した。
「無理をしては駄目だよ」
「ありがとうございます」
 いささか上の空で、身体が火照っている自覚はあった。だが、これくらいなら大丈夫だと思っていた。
 一刻後――倒れたのだから、それは過信だったのだろう。高熱にあえぎ苦しみながら、は葵屋のことを思った。
 慣れぬ環境で暮らすことそれ自体が、にとっては常人の何倍もの負担になる。それでも慣れるしかないのだ。葵屋ではない、骨をうずめる場所をあらたにつくるため、出ていったのは自身だ。
(蒼紫……)
 幼いころはよく隣にいてくれた蒼紫。蒼紫が御庭番衆の者として強くなればなるほど、彼の顔ではなく背中ばかりを眺めるようになった。江戸の頃は見送ることしかできず、幕府崩壊後は、ただひたすら付いていくことしかできなかった。御庭番衆御頭の、蒼紫の苦しみを分かち合うことは、には難しかった。
 支えてなどやれなかったのだろう。だからは、一人だけ京都に預けられた。遠くに去っていく蒼紫の背を見送ることすらできぬまま、歳月は流れ、時折思い出したように届く操や蒼紫の近況報告に喜びながらも、切なさに涙した。
 操を預けるために般若たちと京都にやってきた蒼紫が、しばらくの間葵屋に逗留することになったときは、嬉しかった。ずっとこのまま残ってはくれないのかと期待したし、尋ねもした。
 けれど蒼紫の頭の中は相変わらず御庭番衆のことでいっぱいで、のところに残る選択肢もなければ、を連れていく選択肢も持ち合わせていなかった。
 いっそ蒼紫の世界に自分は存在しないと感じられればよかった。二年も逢っていなかったのだ。想いは薄れていてもおかしくなかったのに、本人に逢うと胸は疼いて、目を見交わし合えばなんとなく互いの胸の熱が伝わるような気さえした。
 なにもかも、勘違いのまま終わらせてくれなかったのは、蒼紫の方なのに。
《待つな。幸せになれ》
 はじめての口付けが、別れの口付けだなんて、あまりに勝手すぎやしないだろうか。否、自分勝手すぎる。やむを得なかったとはいえを葵屋に置いていったときもそうだったし、操を寝かしつけてその隙に逃げ出すように出立することもそうだ。
 こんな自分勝手で、何度でもを置いていってしまえるような男が、それでも自分は好きなのだ。そうして自分の気持ちを受け入れたからこそ、泣いて待っていると訴えた。待っていることしかできなかったけれど、待つことだけはできる。なら、待っていたかった。
(蒼紫……あなたの帰りを……)
 ずっとずっと待っていた。
 あれだけ言ったのだ、が死ぬ前に一度は来てくれるだろうと待ちわびていたのに――生真面目すぎるから変な方向に思いを定めてしまって。東京にいる赤髪のかの人がいなかったら、どうなっていたことか。
 ぼろぼろになって帰ってきた蒼紫を、は泣いて抱きしめた。蒼紫はの胸の中で、すまないと小さく零した。その一言で、は不思議なほどいままでのすべてを許せたのだ。
 あれから一年ともう少し。
 幸せな日々だった。
 幸せすぎて、これ以上傍にはいられないと感じてしまうほどに――夢のような日々だった。
「蒼紫、さま……?」
 額に誰かの手が置かれ、薄目を開いたは、かすれかかった声で漏らした。少ない明かりの中、気難しげな顔をしての顔を覗き込んでいる。
 一年くらい前にも、こんなことがあった。蒼紫の忠告虚しく、が高熱で寝入ったときだ。寝ずの看病についてくれた蒼紫は、座禅でも組むように静かにの布団の横にいた。
 蒼紫の口数が少ないのは昔からだが、言葉はなくても伝わってくるものはある。怒っているのでしょう、とそっと尋ねたら、呆れているだけだ、と即座に返された。
 その声が明らかに怒っていたので、は反省するよりも、なんだか嬉しくて思わず笑みを零してしまったのだ。それは蒼紫にはだいぶ面白くない反応だったらしく、あとでずいぶんと苛められたけれど。いま思い返せば、すべてが幸せだった。
「蒼紫……」
 はまぶたを閉じて、涙をこぼした。熱くなった頭の中を、思い出が駆け巡る。
 帰ってきてくれたあなたと京の街を歩いたこと。まるで昔のように一つ屋根の下で暮らし、穏やかに花を愛でて、月を見て。冷えた手をあなたが握ってくれる。昔のように、心配してくれる。
 幕府崩壊後、帰る場所を失くしてさすらったあの日々は、ほんとうに辛くて、もう二度とはできないと思う。ただでさえ旅はの身体に堪えるのに、元気いっぱいな操の面倒を、ほかの細々とした用事の片手間に見なければならなかったのだ。蒼紫は御頭としての自責の念も強くて、あの時期はのことを振り返る余裕もなかった。
 葵屋に置いていかれたとき、もう駄目なのかもしれない、と思った。もう二度と昔のようにはいっしょにはいられない。蒼紫が隣にいる時間はゼロに等しくなった。
 それが紆余曲折を経て――ようやく、昔のように毎日顔を見られるようになったと、思ったけれど。ただの御庭番衆の一員でしかなかった、の遊び相手だった、幼馴染の蒼紫はもう思い出の中にしかいない。いまの蒼紫は御頭で、葵屋の若旦那になろうと言う人で、なによりも、大人の男性なのだ。
(蒼紫、蒼紫さま……)
 昔には戻れない。昔の関係性そのままではいられない。でも、新しい関係になることはできずに、終わりを迎えた。それを選んだのはほかならぬだ。わかっているのに――。
 明るい日差しで目が覚め、布団から身体を起こしてみたが、傍に蒼紫はいなかった。ぼんやりと彼の幻が座っていた場所を眺め、は欝蒼とした気分になる。
、大丈夫? まだ具合悪い?」
「あかねちゃん……」
 二日間床についていたよと教えられたが、実感のないまま、もう一日休んでから仕事に戻った。懸念した葵屋への連絡を、あかねは控えてくれたらしかった。最初に正直に、妹が葵屋を継ぐことになったから戻らないのだと言っておいてよかったと心底思った。
 葵屋の誰がくることもなく、知り合いと会うこともない。望んだはずの新生活だったが、気欝が晴れることはなかった。
 一日が終わるのが日ごと遅く感じるようになり、これを死ぬまで繰り返すのかと思うと憂鬱にもなった。それもこれも、蒼紫の夢なぞ見たせいだろう。きっぱりさっぱり諦めるためにわざわざ葵屋を出てここまで来たのに、葵屋にいて思い悩んでいた日々よりも強く蒼紫を想う。







未完

ちょうちょ結びの

赤い糸



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